母を偲ぶ

みな様

こんにちは!

コミュニケーション トレーナーの大堀明美です。

11月7日

昨年の今日この日は、私たちにとってはとても悲しい日でした。

胸が張り裂けそうな、深い深い悲しみを味わいました。

最愛の母に逝かれた日なのです。

今日逝くか今晩逝くかと、もうすでに医師に告げられ覚悟が決まっていました。

まるで心が墨汁で塗りつぶされたかのような黒い悲しみでした。

ありし日の母とイチゴ狩り

 緩和ケアという選択肢

最期は、板橋区の健康長寿医療センターの緩和病棟で約2週間を過ごしました。

ご存知と思いますが、「緩和」というのは、延命治療をしないことなんです。

楽に逝ってもらいたいと思っての緩和病棟でしたが、今でも「あれで良かったのだろうか?」と疑念が頭をかすめ、胸が痛くなります。

いままで、付けていた栄養剤の点滴がすべて外され、必要最低限の「輸液」が痩せこけた母のひざ裏にセットされたのでした。(母が外さないようにするために、母の手が届かないところにセットされました。)

お医者は栄養を入れることにより、母の胸に水がたまり、それが本人を苦しめるのだ、だから無理に栄養を入れる必要はないのだとのお話しでした。

その前は、救急で運ばれた東京腎泌尿器センター大和病院で2か月ほどお世話になりましたが、今にして思えば濃厚治療をしてくださり、なるべく母が少しでも長く生きていられるようにと配慮した治療でした。

そこに入院していた時は、母は、しょっちゅう「痛いよう、痛いよう」と腹痛を訴え、痛み止めの点滴や貼付剤を貼ってもらうのですが、なかなか痛みが取れません。

とても見ていられませんでした。

遡ると、2014年5月31日に父を亡くし、母は2014年10月18日に上京してきたのでした。

脳出血による後遺症(右半身不随)、胃がん、認知症の3重苦を負っていましたが最期は胃がんで逝きました。

北海道の父がいなくなった家で母が一人で暮らせるはずもなく、妹と姉である私で、母のお世話をすることにしたのでした。

それ以来、私は主人との週末夫婦生活が始まりました。
母が亡くなった現在も諸事情により週末夫婦が続いていますが。

母の性格もあり、入院中はずっと妹か私が一緒に病院に寝泊りをする毎日でした。

当時は冷静だったと思っていた私も、いま、考えると平常心ではなかったと思うことも多々ありました。

思い起こしてみると、看護士さんや社会福祉士のかたたちの対応にもいちいち尖っていたような気がします。

冷静であったようでも、やはりどこか精神的に壊れていた部分もあったかと思ったりします。

会社を経営しながらの介護でしたが、妹が8割、私が2割くらいの割合での負担だったと思います。

私は、たった2割の負担でしたが、それでも今思えば大変でした。

妹はもっと大変だったでしょう。それだけに悲しみも深いようです。

川越にて母と

でも、終わります

全面的に介護にかかわるかたは本当に大変だしお辛い状況に立たされていると思います。

でも、介護はずっとは続きません。悲しいことに最後があるということなんです。

介護でお疲れのあなたも、いつかは終わるものなのだということなんです。

今の苦しさは、今の大変さは必ず終わります。

それよりも、いつかお別れしなければならない家族のために、今できることをしてさし上げてください。

介護にかかわる公的な支援も多々ありますので、おおいに利用なさって自分だけで抱え込まないようにしましょう。

母をお風呂に入れていた時に、いつも詠んでいた短歌があります。

母の中学の同級生の句で、当時の新聞に掲載されたというもので、感心して母がいつまでも覚えていたものです。

母うえの 背中ながせば 肉おちし
肩より湯気の たちてさびしも

お風呂に入ると、この歌が思い出されます。
一緒にお風呂に入り、母の背中を流し、それはあたかも私の心情を綴っているかのように思えました。

  母も、自分の母(私の祖母)を思っていたかもしれませんね。

母を偲んで今日は書かせていただきました。

あなたの笑顔を忘れません

 

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コミュニケーション トレーナー

大堀明美

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